昭和40年02月03日 夜の御理解
食う為なら嘘を言うてもよい、飲めるなら罪をつくってでも飲みたい。そういう生き方は信心さして頂く者の生き方ではないと思いますよね。食べる為なら嘘を言うてでも、飲める為なら罪をつくってでも飲もうとする。これは信心をさして頂く者の生き方であってはならんという。所が信心を頂いておっても、私はそこの所の改まり出来ず、そこの所が脱皮出来ずにこんなこっちゃい けんのだけど、こんなこっちゃいけんのだけれどと思いながら、矢張り嘘を言い、罪をつくっていく。
それではその本当のおかげになって来ないから、ね。信心をさして頂いて、頂くおかげというものはね、食ば食べさせなおかんと、ね、食べさせねばおかんと飲ましてやらにゃおられんとそういう働きが、働きとなって私共生活が支えられていき、愈々おかげを頂いていくという、おかげになって来にゃいけんのです。食べる為なら嘘を言うても、飲むためなら少し要領を、要領をしたり罪をつくってでも、飲もうとする食おうとする。そういう生き方、ういう生き方を私は、あさましい生き方だとこう思うね。
そういうそのあさましい生き方から、有難いという生き方、勿体ないという生き方、相済まんという生き方、そういう生き方が出来る事が私信心さして頂くものの生き方でなからなければならないと思うね。自分が食べる為なら、人の茶碗でも叩き落してからでも、自分が飲む為には、嘘を言うてでも飲まねばならんと、罪をつくってでも飲み食いしなければならないと言う様な生き方。
所がそういう生き方をしておる人が、実を言うたらもう言うたらこの世の中にもう言うなら、もう一杯じゃなかろか、とこう思うんですね。そこに信心さして頂く者はです、もう本当の事を分からしてもろうて、生かさにゃおかん食べさせなおかん、飲まさせなおかんと言う様な働きの中に、おかげを頂いていきますから、有難い事だなぁ勿体ない事だと、こう言う事になるんです。
信心も出来んのに相済まん事 だと言う事になるのです。まっそのそういうふうに信心が、切り替えられなければ駄目だと、信心さして頂いておって、そんならどのどういうふうに、切り替えるかというとね、その思いを切り替える事なのですよ。ね、本気で働かしてもらう。しかも忠実に教えを元にして、のやっぱ本当はそういう働きが出来ると言う事。端の人が喜んで下さるという働きなんです。
例えばほんならまあ久富さんあたりが、お百姓なさっておる。ね、そこのゴボウがです見事におかげを頂いて、皆さんの食事に上るとき、やぁこのゴボウは美味しいな、このゴボウは美味しいと言うてその頂いて貰える様な祈りを込めさして頂く働きなのです。もう立派育っていかれておる。市場へ行ったら誰がその高うなる方になるために、立派に出来る。ために立派に作るとこれではいけません。
この人参の見事さ、どうかこの色の鮮やかさはと、例えばもう野菜屋の店頭で、皆の目を楽しませるような例えば、人参が出来る事を祈り願わしてもろうて、天地に縋って行くという働き、生き方そういう私生き方が、働く事だとこう思うんです。私は先日お1日の御月次祭に、御説教が終わりましてから、二階に上がって、降りて来たら、ここへ篠原さんが座っておられる。
御神酒の前に、あぁ御神酒頂きなさったのじゃろうかと思うたら、私もそれから御神酒を頂こうかっていうて、御神酒を頂いた、久富さんがついで下さった。まぁ打ち込んで最近ああして御信心が出来ておられる。何とかしてどうとかしてです御用がしたいと。まぁささやかながらにも、人に喜んで貰いたいと言う様な思いがですね、それが私は篠原さんをして、御神酒の前に座らせておったんだなと、私は、まっそんな素朴な篠原さんの、その手つきの中から態度の中からですね、本当に有難いものを感じたんです。
私はあの頂いてすぐこちらへ来て、篠原さんももうこちらへ来なさるかと思ったら、はぁと座ってから次々に御神酒頂く人の為に、こうついであげなさるんです。御用の何かまだ知っとられる筈がない。金光様の信心ちゃぁこういうふうに、やらなきゃならんと言う事も、まだそういう信心が分かっておられるはずでもない。その篠原さんがです。とにかくその、どうにかせにゃぁおられないのですね、そして人に喜んで頂く為の、例えばこのくらいの御用なら自分にでも出来る、という一杯のものをです。
あの御祭りの後になさっておるのを見てから、私は本当尊い事だなぁ有難いなと思ったんです。信心とはこれが育って行く事なんだ。それが自分の家庭の上にも、職場の上にも、勿論御広前で言うにさらなりで有ります。ね、信心の稽古さして頂いておっても、何処に信心の稽古をしておるふうが見えるかと。見えない人が沢山あるのです。信心をしておるけれども、教えを頂いておるけども、その教えを本当に行の上に現しておる人は少ないです。ね。私共はこうやって日々奉仕さして頂くでもです。
ただ自分の時間を自分が坐る、坐ればそれで言うなら他人もそれで食べもされりゃ、飲みもされると、と言う様な働きでは、いくらそれが一生懸命なされたからというて、それは私は有難いものにも、尊いものにもならないと思う。人が喜んで下さる。神様が喜んで下さる。ね。そういう働き端が楽になられる為の、私は御用に成って来る時です、そこにはもう期せずして、頼まず願わずし、食べさせなおかん、飲まさなおかんという働きが頂けて来る様になり、そういう私は信心生活がです。
愈々本当のものに、垢抜けして行く事を楽しみのです、信心にならなければですいつまでも摂取の生活。しかもその摂取するためには嘘を言うてもよい。罪を作ってでも構わんと言う様な、浅ましい生き方になったんではです、いつまでたっても神様に喜んで頂けるようなおかげ。自分も有難い事じゃなぁ勿体ない事じゃなぁ、相済まん事じゃなぁ、と言う様な中にです。お生かしのおかげ頂く事はとても、望めません。ただ願うた事が、おかげになったとしてもです、それでは私は本当の信心じゃぁないと思うのですね。
おかげ頂かにゃいけません。